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日々を歩いてvol.6《番外編》~静岡から履きものを求めて~

日々を歩いて

 

静岡から履きものを求めて

 今ではわたしたちの足元のアイテムとして当然となった靴やサンダルが、日本人の暮らしに広まる以前 —— 履物と言えば、草履(ぞうり)や草鞋(わらじ)、下駄(げた)を中心に、日常の外履きから、農耕用(田下駄)、農産物の加工用(茶切り下駄など)、更には険しい峠を越えて物や情報を届ける長旅の足元を支えるものまで、つい最近まで、わたしたちの足とその履物の果たす役割は今よりずっと多様にあった。

 海の向こうのファーストフード店が日本各地に一号店を構え、きらきらとした目新しい文化に人々が賑わっていた1960年代の終わり。

 静岡の海と山に挟まれた長閑な土地で、「履きもの屋」を営む一家の二男に生まれた。

 家業の「履きもの屋」は、昭和初期まで下駄の製造から販売までを行う商店で、隣接する工房では、土地の恵みと職人たちの手によって、毎日下駄が作られていた。素材となる杉や檜(ひのき)といった木材は富士に連なる山々に豊富で、当時、下駄は家具と並んで土地の要となる産業だった。祖父は、下駄に漆塗りを施した「漆下駄(うるしげた)」を作る職人でもあり、漆の下地には南アルプスから駿河湾へと流れる大井川や安倍川の底砂も使われた。

 漆を塗る寡黙な祖父の背中と、職人たちが集う緊張感のあるものづくりの現場は、幼い身には近付くことのできない世界にみえたという。

 時の経過と共に、人々の暮らしが加速度的に西洋化してゆく流れのなかで、それまで静岡の地場産業を支えていた下駄の需要は急激に減少し、産業は衰退していった。そうして「履きもの屋」は変革を余儀なくされ、大きな変換と共に祖父から父へと受け渡された。その苦悩を、父の背中に見、肌身で感じながら少年時代を過ごしたという。

 15才で静岡を離れて以来、自らの暮らしを東京で築きつつあった20代半ば、父親から思いがけずして家業の一端を受け取った。尊敬する父の想いに応えるように、30歳を前にして静岡の地に戻ってきたのは今から22年前のこと。

 世代と共に時代は移り、新たな「履きもの屋」の担い手として、心から人々に届けたいと思える靴を探して、世界各地を歩いて廻る日々が始まった。

 年月を経た今も、その続きの日々を歩いている。

 


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