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日々を歩いてvol.7~普通の暮らしに光を~(足立千佳子)

日々を歩いて

 

「本日大漁! "水揚げ" しました!!」

東北の海で水揚げされた
サンマやウニやタコたちは、
今にも会話をはじめそう。

くりん!とした目が愛らしい
活きのイイ色鮮やかな海のいきものたち。

彼らの "水揚げ" を知らせるお便りは
2011年から絶えることなく、

宮城の小さな場所から
全国各地へと届けられます。

宮城県沖から内陸に約15km。
農と共に人々の暮らしのある土地、登米市東和町米川。

2012年を迎えようとする冬の始まり、
わたしたちはこの地にある旧鱒淵小学校に隣接する体育館で
サンマやタコの形をした「エコたわし」に出会った。

東日本大震災の津波の被災を受けた沿岸の町
宮城県南三陸町 志津川中瀬町の人々の二次避難先でもあったこの場所で
「エコたわし」は生まれた。

凍える寒さのなか、女性たちに編みものを教えていたの足立千佳子さんだった。

2011年3月11日

足立さんの暮らす仙台市は、震度6の揺れを受けてライフラインが止まり、誰もが混乱と戸惑いの中で対応に追われていた。復旧の目途は立たず、ブロックを積んだ釜戸を作り、自宅の庭の木をくべて火を起こし、溜めた雪解け水で煮炊きをした。そうした日々が約一ヶ月のあいだ続いたという。

「津波に遭った地域や原発の被災地の方々は―――」

足立さんはそれまで長年にわたり、行政や地元の人々と共に、町づくりや地域振興に取り組んできた。自ら被災をしながらも、地震発生の2週間後には仙台の自宅を離れ、生活の場を失ったであろう地域の人々の元へと身を移していた。

年表に載らない普通の人の暮らしこそ

足立千佳子さんはかつて、地元、仙台の大学で民俗学を専攻していた。各地へ赴き、地域性の収集や人々の語りの記録を重ね、土地に根付いた風習や文化、社会性を研究するフィールドワークを行っていた。

各地の暮らしに根付いた知恵や思想の奥深さに夢中になっていたさなかに、自身の結婚という人生の節目を迎え、子育てが軸の生活へと切り替わる。家庭の中で母としての日々を送る傍ら、子育ての合間に心惹かれる民俗学のイベントや講義へと繰り返し足を運ぶうちに、様々な立場の人との出会いと繋がりが生まれていった。

下の子どもが小学校に入学して子育てがひと段落した頃、市民と行政を繋ぐNPO法人の立ち上げメンバーとして声を掛けられたのを機に、思いがけずして、学生時代に夢中だったフィールドワークを別の形で再開することになる。行政の方針や取り組みの意図を、専門家に代わって地域の人々に伝え、暮らしの中から生まれる声を汲み取る仕事は、まさに足立さんに相応しい役割だった。

そうして数々の場と経験を積むごとに、年表には載らない「普通の暮らし」の中にある、尊い無数の声と無数の知恵が、彼女の中に蓄積されていく。

『おなごたちの仕事を』

2011年春、気仙沼や南三陸など、各地の避難所を廻り、遠方から集まるボランティアや駆け付ける地域の人々と共に目の前のことに応じる毎日が続いた。

「おなごたちの仕事を考えっぺ」

課題が山積する避難所生活で、津波に見舞われた南三陸町中瀬地区の行政区長 佐藤徳郎さんの口からこぼれた声だった。

海と共にある日々の営みを支えてきた、浜の女性たち。
いずれ避難所生活を終えた後にはじまる、彼女たちの暮らしのこと。

家庭や地域の中で、漁業に携わる家族を支え、自ら仕事を担ってきた女性たちが、ひとときにして自らの居場所である “浜の暮らし” を失っていた。

これからどのように暮らし、何を生きがいに人生を立て直していくか。

震災前より懸念されていた課題が目の前の現実となり、足立さんは「いま、自ら」が応じようと、間もなく「女性たちの仕事づくり」に取り掛かる。

震災を機に、自らプレイヤーに。
ものごとは、明るく、軽やかに。

「地域づくり」「都市計画」「女性支援」といった課題を、研究や検討のテーマとして取り組む中で、足立さん自身、果たしきれていないと感じることも少なからずあったという。

「東日本大震災の4年前に起きた「岩手・宮城内陸地震(2008年6月14日)」で、震度6強に見舞われた栗原市栗駒は大きな被害を受けて、土石流に巻き込まれて亡くなられた方もいました。被災地支援に土地に入っていく人たちを見ながら、当時の私は何も出来なかったんです。仲間や友人の暮らす土地であるにも関わらず、何も出来なかった。"自らプレーヤーとして土地に入っていく" ということの必要性を、その時に知りました。3.11が起きた時は、今度は私の番なんじゃないかと思ったんです。」

混乱する避難所生活の中で理想を描いて検討するゆとりはなく、足立さんは自ら土地に入り、活動を始めることにした。

当時、初心者でも作れる便利なアイテムとして話題になっていた、アクリル毛糸の「エコたわし」。必要なものは毛糸と編み針。材料が手に入りやすく、シンプルで、誰でも練習すれば形になる。

気楽に手に取れる、日々の暮らしの中でさりげなく使われる「軽やかさ」は、足立さんが物事に取り組む上で目指す在り方にもピッタリだった。

製品サンプル作りと自身の習得のため、活動拠点の町にある手芸店に通った。

色がある、役割がある、共にある
そうして居場所になっていく

震災後の数年間、『編んだもんだら』は各地の避難先や仮設住宅に女性たちが寄り集まり「お茶っこ(※)」をしながら作られていた。

※お茶っこ:お茶呑みを表す宮城のことば。

それぞれの近況や、身の回りの気になること、少し離れた地域に暮らす仲間たちの様子など、自由に言葉にしたり、しなかったり。そうして地元の女性たちが集まりながら、自慢の「海のいきもの」で収入を得る。

目にして触れて、明るい気持ちになる愛嬌と
幼いころから口にしてきた、美味しい記憶。

“私こそ” と思える、暮らした土地と共にある誇り。

そうしたものが作り手の手のなかにあって初めて、取り組みは暮らしに根付いていくんじゃないかなと、足立さんは言う。

「お母さんたちの多くが、編み物の経験がなくゼロからの始まりでした。みんなで試行錯誤しながらも、出来上がる自慢のサンマやタコやウニを見て、お母さんたちから「色が戻ってきた」という明るい声が聴こえたの。それが本当に嬉しくて。」

震災から3ヵ月。誰しもが、再び日常を取り戻せるか見通しはつかず、今日を乗り切ることさえ不安に思う最中に始まった取り組みだった。それでも確かに、浜の暮らしの延長にある、新たな日常が始まっていた。

宮城で古くからある、ワラを揉んで作ったタワシ「もんだら」にちなんで、女性たちの作る「エコたわし」は後に『編んだもんだら』と名付けられて全国へ出荷されるようになる。

「んだ、んだ。だなー。
まずは “お茶っこ” すっぺ。」

編み手の女性たちの生活の場は8年の年月をかけ、ようやく避難所や仮設住宅から、当面の暮らしを築いていける場所へと落ち着きつつある。

『編んだもんだら』の水揚げの場は生活の変化に伴い、今では震災後に切り開かれた山の高台に新設された、復興住宅や復興公営団地へと移った。足立さん自らがそれぞれの新しい居場所へと足を運び、「お茶っこ」をしながら各地を廻る。

手法や形を柔軟に変えながら、当時と変わらず、津波に見舞われた気仙沼市大島、南三陸町歌津寄木、志津川中瀬町、そして、かつての避難先にあたる登米市に暮らすお母さんたちと「海のいきものたち」のエコたわし作りを続けている。

メンバーはそれぞれに腕を上げ、北海道から沖縄まで、各地より寄せられる要望に応えて、新作づくりにも積極的だ。

本日も大漁!

人が集えば、それぞれの人生にまつわる事情や、得手不得手、感情や心持ちも様々で、「ひとつ」にまとめることは、はじめから求めていないと足立さんは言う。それぞれが自らの手に誇りをもって、誇りある仕事を続けるために、「お茶っこ」をしながら声と声に頷き合う。

震災後より身を置いている登米市の(有)コンテナおおあみ(※)を拠点に、仙台の自宅から片道1.5時間の道のりを往復しながら、「食、情報、てしごと」を軸に、『編んだもんだら』のみならず広く地域に根差した活動に飛び回る日々を過ごす。

リアルな「声」と「手」の中にある
年表には残らない
普通の日々の何より尊い営みを
軽やかに、他の地域の人々へと。

そして、次の次の世代まで。

(2019年8月)

地元に暮らす方々、他の地域から集まる方々、ボランティアと、立場を越えて。

 

「タコは足、ヒラメはエンガワ、ホタテは耳、
 ホヤは身、そして、サンマはクチバシ。

 海を知ってるお母さんたちは、
 思いもよらないところに本物のポイントを指摘する。

 編んでは会議、編んでは会議。
 とぼけた姿に、実はリアルがつまってる。」

(「編んだもんだら」公式ガイドブック『サンマのクチバシ』より)

「コンテナおおあみ」:地元起業家を応援し、新たな雇用と産業を創出するための協働オフィス事業を2011年に開始。震災後は被災地における女性の経済的自立と仮設住宅等で暮らす方々の生活再建に向けた就労と生きがいづくりの場を提供する目的で手仕事支援事業を行っている。

「編んだもんだら」は商品代金の40%は作り手の女性たちに、
その他は原材料費、販売手数料、プロジェクト運営費等に充てられています。

 


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